映像記録の新しいリテラシーを求めて

三木順子

実験的な映像ドキュメンテーション・プロジェクト
空間の「もつれ」を写す―How to Document the Tangling Space?

ディレクター

京都工芸繊維大学

 

 展示や建築の映像記録には、従来から行われているスチールフォトによる記録に加えて、近年では3Dレーザースキャナーや360°撮影によって空間を3Dモデルのデータとして記録・再現するVR的手法が定着しつつある。記録された空間のなかを観る者が自在に移動し、その都度360°のパノラマを⾒渡すことのできるVR的手法は、空間を、写真のように分節化して切り取るのではなく、ひとつのシークエンスとして記録し追体験させることのできる手法として、建築分野で注目されている。「360°&シークエンス」と特徴とするこの記録方式では、空間を、どのような順序で観たとしてもその細部の見え方は常に同じであるという、空間の安定性と同一性が前提となっている。

 だが、現代アートのインスタレーション空間は、VR的手法ではけっして十分には記録されえない。というのもそれらの多くは、たとえ同じ順路で観たとしても、その都度まったく別様に知覚されることを企図する空間だからである。そうだとすれば、この不均質で非-同一的な空間は、いかにして記録されうるのだろうか。このような問題意識のもとに、京都工芸繊維大学KYOTO Design Labで、実験的な映像ドキュメンテーション・プロジェクト「空間の『もつれ』を写す」が、映像作家の瀧健太郎をゲストクリエーターに招いて実施された。

  このプロジェクトで記録の対象となったのが、アーツ千代田3331内の京都工芸繊維大学KYOTO Design Lab東京ギャラリーで、アーティストの中野裕介/パラモデルをゲストキュレーターとして展示されたインスタレーション「para・textile 本を編む ―繁茂する外延」(2020年9月30日-10月18日)である。

 インスタレーション展示「para・textile本を編む ―繁茂する外延」は、11台のプロジェクタが投影する映像(動画)と、6台のスピーカーが発する音声や、いくつものオブジェや印刷物が、相互に「もつれ」あいながら構築する過剰な空間である。そこでは、鑑賞者の動きや姿勢や順路のとりかたに応じて、鑑賞者自身の影の映り込み方や、映像や音声の認識のされ方や、隠れた細部の発見のされ方が変容していく。このもつれた空間の映像ドキュメンテーションでは、いわゆるインスタレーション・ヴューや、ディレクターやキュレーターのインタヴューだけでなく、何人かの鑑賞者やゲストキュレーター自身がヴィデオカメラに収めた、それぞれにとっての空間の「見え方」をDVDという媒体のなかに織り込み、DVDの視聴者がその都度さまざまな見え方を選択していくシステムが構成されることとなった。DVDの視聴者は、インタラクティブな仕方で空間の「別の」見え方・聞こえ方へとみずからの意識を常に新たに開きながら、非-同一的で不均質な空間の「もつれ」を追体験していく。

 この実験的な映像ドキュメンテーションは、Web 版として再編され、よりよい画質・音質でここに公開されることとなった。

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複層的ヴィデオ・グラフの可能性

瀧健太郎

実験的な映像ドキュメンテーション・プロジェクト
空間の「もつれ」を写す―How to Document the Tangling Space?

ゲスト・クリエーター/ヴィデオアーティスト

 

 現代ほど言葉が軽視される傾向にある一方で、文脈が重要視されている時代はないのではないだろうか。それは発言の内容=「何を」言ったかよりも、発話の周辺的事象「誰が・どこで・誰に向けて・どの様な意図で」が瞬時に知れ渡り、「政治的に相応しいか/不相応しくないか」を測られる空気感を生み出している。ヴィデオ・グラフ(映像による記録)はその中でも「何を・誰が・どこで」といった情報を過分に含むが故に、恣意的に切り取り、文脈を捏造させることすらある。ヴィデオ・グラフは一方で、アーカイヴとして貯蔵し、後に文脈を検証する材料としての性格も併せ持つ。つまりヴィデオ・メディアはホラ吹きと目撃者の相反する性格があり、双方間の弁証法的使命を背負った記述方法なのかも知れない。

 

 中野裕介さんがキュレーションした「para.textile――繁茂する外延」展は「パラテキスト」や「繁茂させる」などのキーワードが示すように、一元的で固定化した読みを拒絶し、多様な読解を求める仕掛けがいくつもなされていた。そこで私はある種の偏在的で遊動的なアーカイヴの模索を夢想してみた。展示の元となった三木順子さんの書籍や、更にその源泉であるキュレトリアルなアーティストによるシンポジウムの遺伝子を継承しながらも、中野氏の展示空間自体を複層的に読解することはできるだろうか。一般的なドキュメンタリーの形式では直線的な時間軸上に展示風景やインタビューが配置・編集されることが多いが、今回の試みでは同心円状に広がるフィールドに動画記録が散らばってマッピングされる回路の様な形式を構想した。

 また記録映像をいくつかの視点による複層的な読み取りとして提示しようと、一人の目線ではなく、撮影段階にスマホ世代の複数の学生や、ケーブルテレビの番組を制作している大江直哉氏、そしてヴィデオ作家の小生、また中野氏が設営時に撮影していたスマホ動画など、多元的な視点による記録を試みた。展覧会場に仕掛けられた様々な切り文字、映像、音声、ミニチュア、オブジェ、それらの空間的な配置を、複数の読み手がそれぞれの関心で見ていくという仮構の元、完成映像の時間的な制限を設けず、編集や加工をほとんど加えずに、記録の要素が相互参照し合うように配置することにした。

 

 とは言うものの、料理で例えるなら材料をまったく調理せず、皿にも乗せず、あるいはそのまま冷凍貯蔵させるわけにもいかないので、展覧会の部分を切り取った映像、会場音声、関係者インタビューを、組み合わせの違う複数のフッテージに分けた。最終的にヴィデオ・グラフは記録メディアとしてブルーレイ、DVD、ブラウザ用のWEBサイト、モバイル用のWEBサイトの4種類のプラットフォームで提示することになった。これにより、展示記録の映像が多様なメディア上に散らばり、前後の動画の視聴の組み合わせが変わることで、ユーザーひとりひとりの読解方法や文脈は、より繁茂的に広がることが想定できる。ただし実際これらのデジタル・メディアでは、双方向性をプログラムに従った形で設定せざるを得ず、あくまでも複層的な文脈のシミュレーションに他ならない。

 

 この作業はヴィデオ・グラファーというよりむしろ私が1990年代後半に映像のサンプリング(引用・剽窃)で作品制作していた感覚と似ていた。ある文脈の中の情報を切り取り・再配置することで、別な文脈で見るリミックスの手法は、時空間上に配置された前後の要素との関連で、文脈の可変性を半ば独断的に示すことでもある。生きた素材をそのままパッケージする方法は、VRや三次元などの技術が進んだ今では形式的には作り出すことができる。しかし体験性の定義を、人の生き方が連続した時間の中で出来事を受容すると捉えた場合、疑似的な再現空間と現実空間を接続することができない以上、根本的には模倣の域を出ることはない。

 

 その意味で書籍・展覧会キュレーション・映像記録のいずれにおいても、編集という作業は素材要素を切り捨て、残余を加工していく意思決定であり、ある種の残酷で過酷な作業だと言える。そのことを踏まえたうえで、このドキュメンテーションは私にとって、三木さんや中野氏のプロジェクトを有機的に読むためのツールとなったし、また表面的な模倣(あるいは現前を超えようとしてしまう表象)を得意とする今日の技術によるヴィデオ・グラフの可能/不可能性について考える良い機会となった。そして複雑に絡まり、分からないことだらけのこの世界に、視点を仮定し示していく編集やキュレ―ションについて改めて確認できた。その感覚を閲覧される方々と少しでも共有できれば嬉しい限りだ。

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© Kyoto Institute of Technology & TAKI Kentaro

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